自身の事を「まだまだ未熟だ」と嘆く方がいる。
しかしそれはまだまだ成長できる証拠。
謙遜を忘れ傲慢になってしまうよりよっぽどいい。
老子の教えにこういう言葉がある。
「真の大器とは、晩年になっても完成しない。つまり永遠に未完成なのである」
これが「大器晩成」の本当の意味である。
老子の言葉を自由訳した本があり、考えが深まると思うので少し紹介。
道(Dao:タオ)に目ざめ、道につながった人こそ真の指導者になることができる。
その特徴をあげてみよう。
まず、慎重である。
氷の張った河面を渡る時のようにね。
次に用心深い。
四方を敵に囲まれた時のようにね。
つねに端然として乱れることがない。
よその家に客として招かれた時のようにね。
人柄は純朴で飾り気がなく親しみやすい。
山から伐り出されたばかりの原木のようにね。
心は広く深い。
その水は清く澄みわたり。
私利私欲に汚れることがない。
それでいながら世俗のにごりに汚されることをいとわない。
やがてにごりは自ら沈殿してゆき、水はいつのまにか清く澄んでいる。
彼は、何をしたのか・・・?
何をしたわけではないのだ。
世俗のにごりを自ら進んで浄化する。
人びとの力を信じ、いのちのエネルギーにゆだねたのだ。
無為にして無心。
余計なことは一つもせず、ただあるがままを受け入れただけなのだ。
老子は他人に完全であることを望まない。
ほころびや欠陥があっても動じない。
その方がかえって自然ではないか。
「大器晩成」この言葉をどう解釈すべきか・・・?
「大人物は、才能のあらわれるのは遅いが、晩年になって完成する」
そのように解釈する人びとは多いであろう。
しかし彼は、そのような解釈は不遜だと考える。
そもそも完成などありえないのだ。
完成するような大器は、真の大器ではない。
真の大器とは、晩年になっても完成しない。
つまり永遠に未完成なのである。
だから自分自身の成長にも完成ということを考えない。
そんなことを思いながら水のように風のように生きてゆく。
ゆったりとおおらかにね。
それが道(Dao:タオ)に目ざめた指導者の生き方なのだよ。